プロフィール

後藤ようこのプロフィール

プロフを書いてみました。丸5日、かかりました。(笑)

後藤ようこの生い立ち

1984年3月、私は長崎で生まれ、奈良で育ちました。

父50歳、母27歳の時の子で、母は確か7人目くらいの妻。私は父の3人目の子供でしたが、一人っ子です。

二人、異母姉妹がいます。
一番上の姉は30歳年上、二番目の姉は20歳年上で全員が腹違い。

そう、父は長女よりも3つ年下の母と結婚し私が生まれたという、芸能人でいうと石田純一ファミリーと同じような家系図!
「一般人・石田家選手権」があれば、優勝する自信があります。(笑)

で、生まれた瞬間からひと味もふた味も違った私は、その後、波乱万丈な人生を歩むことになります。

お金持ち少女の、唯一の悩み。

父は不動産屋をしており、私たち一家は何一つ不自由ない生活を送っていました。

私立の幼稚園・小学校に通い、高級住宅地に住み、一流品に囲まれた生活。
何の不満もなかったのですが、唯一、モヤモヤすることがありました。

それは「贈答品」について。

幼稚園ではすべてのプレゼントが嬉しかったのですが、小学校に入学したころには自我が確立。

小1の時点で、趣味に合わないモノをいただくことを苦痛に感じはじめました。

プレゼントをいただく機会は多かったですが、大概のモノはすでに「お気に入りをもっている状態」。

そこに、好みではない品を人からもらうという「ムダ感」。

親に「いいモノだから」といわれて一応飾ったり使うんだけれども、全然ハッピーじゃない。

気に入らないモノを毎日見ることが、不愉快。

贅沢な悩みですが、当時の私はいかにしてこの状況を回避するかが死活問題でした。

こうして私は、小1の誕生日から『モノとヒトの関係性』を意識しはじめます。

貧乏への転落

そんな暮らしのなか、バブル崩壊。株が紙切れに。

直後に父が病気のため他界。私は10歳でした。
そして、暮らしが大きく変化します。

異母姉妹への財産分与。
ネズミが屋根裏を走るおばあちゃん宅へ、お引越し。
田舎の公立校へ転校。

つまり、お金持ちから貧乏への急転落。

このとき憔悴しきった母に代わり、相続手続きの書類約50ページを私がワープロでつくったため、10歳にして家の全財産を把握することに。

この年齢で、数百万~一千万円単位のリアルなお金の流れに触れた経験がある人って、あんまりいないでしょうね・・・。

しかもその機会が「遺産相続」って、いま考えるとなかなかヘビーだな(笑)。

まぁこのちょっと特殊な経験により、私の「金銭的価値観」と「モノの価値観」が研ぎ澄まされました。

価格と価値

よく覚えているのが、車の売却について。
うちには、1500万円のベンツがありました。

父が買ってから半年ほどしか乗っていないもので、売りに出したときは購入から一年くらい経っていたと思います。

オークションでついた価格・・・「700万円」

【700万円!!??】

このとき、私はこう思いました。

「半年しか乗らなかったそのベンツは、はたして800万円の価値分を果たしたのだろうか。」
「1500万円のベンツは『父』には価値のあるものだったけれど、私たちにとってはただの鉄のかたまり。」
「800万円あれば、中学まで私立に通えたのではないか。」

こんなことを10歳で悟り、そして絶望したのです。

【ある人にとって価値あるモノは、他人にとっては価値がない】

このような、カネとモノの流れをリアルにみていく中で「一流品には平等に価値がある」と思い込んでいた私の価値基準は、リセットされました。

そして、母を反面教師として、再構築されることになります。

『モノ』とは何か、『カネ』とは何か

中学にあがる頃には、自分のなかで「モノとカネ」についての定義と課題を、二つ持っていました。

まずは、『高いモノはいい』とか『安いモノは悪い』ということはない、ということ。

これは、衣食住全て一流品にしか触れてこなかった私が、一般的な市販品に触れるようになってから学んだことです。

有田焼だからいいとか、100均の食器だからダメということはない。
200万円の時計がいいとか、3000円の時計だから悪い、ということもない。

一般的には「迷ったらいいもの(高いほう)を買え。」といわれますが、そんなことはありません。

大切なことは、納得するものを自ら選び、愛情を持って使うということ
それが、全てであると思いました。

モノと幸せな関係を築くためには

モノに対する自分のポリシーが形成されるなか、貧乏になってから使う機会がない高級品を手ばなせない母を見て、ヤキモキしていました。

そして、もっとも困ったものが「贈答品」

生活が大変でしょうとまわりからお品をたくさんいただきましたが、すでに生活用品は十分にそろっていました。

田舎に引っ越した後、元々「捨てられない症候群」だった母の病が一気に悪化。

どんどん圧迫される生活スペース・・・。

十分あるのに、なぜ手ばなせないのか。

「人からの思い」が乗っかったモノは、例えいらないモノでも手ばなしづらいんですよね。

そして「タダでもらったモノほど捨てられない」呪縛。

母のことをヤイヤイ言っていますが、「贈答品」ついては私も同じく手ばなせないという悩みがありました。

マイポリシーである「自ら選んだ納得のいくモノに囲まれて暮らす」ためには、「贈答文化をどうにかしないといけない。」

「文化から変えないといけない」ことに気がつき、その方法を思案しはじめたのが小6でした。

これらの経験が自身の社会課題「『いらないモノはいりません』と胸をはって言える世の中にする」ために「贈答文化に革命をおこす!」という目標の、原体験になりました。

中学~就職まで

さて、こんな感じで長崎の田舎で暮らしていたのですが、もう、刺激がなさ過ぎて、なさ過ぎて・・・

このままでは、私の青春が腐ってしまう!と母に懇願し、高校からは奈良に戻ります。
奈良も田舎だけれども、住みやすくて便利なんです。バイトもできるし。

高校では入りたかった写真部に入部して成果を残し、成績もトップ、楽しい高校生活を送りました。

卒業後は東京の語学学校で一年学び、あこがれの地フランスへ留学。

夢であった写真家になるための渡仏でしたが、「アート写真」だけでは食っていけない現実を見て一年半で帰国。

母が貯めていてくれた大学資金を使い果たした私は、そのまま就職しようと思っていたところ、母に「一人娘のあんたを、大学にいかせるのが夢だった。」と泣かれ、親孝行のために大学へ行くことにします。

語学系の学校へ2年通った後、24歳で名古屋大学に三年次編入。
学費は全額免除&二つの企業から給付型奨学金をいただいていたので、ほぼお金はかからず。

そして、大学卒業後は奈良で就職。大学で出会った彼と26歳で結婚。

奈良と東京で遠距離婚をしながら生活を続けますが、夫の浪費と不倫が原因で離婚。と同時に精神を相当病みました。

しかし「マイナスコンテンツは乗り越えればプラスコンテンツ。byごとー」。

経験を生かして恋愛・不倫離婚相談員になりました。

このときヨガ資格をとったりサプリや漢方に詳しくなったことが、のちのお仕事にも生かされました。

起業について

元々起業希望で、大学在学時から取り組んでいたのが「ソーシャルビジネス」。
しかしマネタイズが難しいという理由ですぐに断念。

次に、「米を未来につなぐ」ために新規のお米事業がしたくて、お米の可能性を模索していました。

そこで見つけたのが「お米の乳酸菌飲料」。(この話の詳細はまた別の機会に)

きっかけは、知り合いの蔵人が「日本酒の作りはじめってほとんどアルコールないんだけど、ヤクルトっぽくて美味しんだよね~」と言っているのを聞き「これはビジネスになる」と直感。

2010年から5年くらい取り組んでいたのですが、製造業者や販売ルートが見つからず実現化できませんでした。

100件以上の企業にアプローチしたのですが、ど素人の私は門前払いでしたね。

そうこうしているうちに、2014年あたりから「腸内細菌ブーム」が到来。
レッドオーシャンになったため商品化は「今」じゃないと判断し、この事業は一旦保留に。

この時、自分が世間の5年くらい先を進んでいるという自覚が芽生えました。
そして「私の価値感覚や先見性は、間違ってない」という自信になりましたね。

いやぁ、それにしても「あきらめが悪い」というのも良くないです。
自分のポリシーは、
【成功するただ一つの方法は、成功するまで努力し続けること】
なんですが、こういうのってアダとなることがあるんだなぁと思いました。

中途半端に、ビジコンで優秀賞をもらったりしていたのであきらめがつかなかったんですよ。

ときに「見切りをつけて次にいく」ことも大切です。
でも、いまだに「諦めるタイミング」はよくわかりません。誰か教えて欲しい・・・。

まぁ、5年はちょっとロスしすぎたと反省し、次はスピード感を持って取り組むことを決意。

ソーシャルビジネスをもう一度

次に何をしようかと模索していたところ、もう一度「ソーシャルビジネス」がしたいなと。

もともと大学時代は「町おこし」系で起業しようと思っていたんです。

奈良が、飲食店数・宿泊室数が全国最下位レベルであることに危機感を持っていましたし、田舎の空き家問題や農家や、家業の後継者不足問題にも関心がありました。

ただ、ソーシャルビジネスでの収益化は難しいけれども、もう一度トライしてみたい。

そう思って、ソーシャル系の人を追いかけていたんです。
そのうちの一人が「アサダワタルさん」でした。

この方は、自宅の一部を開放してパブリックスペースとして共有する「住み開き」活動を行っており、「日常編集家」としてコミュニティづくりや町づくり、音楽家など多岐にわたる活動されていました。

わたし自身、自宅を開放した『住み開き』を何度か開催し「自分なりのソーシャルビジネス」とはなにかを模索していたんです。

西野さんとの出会い

忘れもしない2016年5月19日、心斎橋のスタンダードブックストアでアサダさんの新刊「コミュニティ難民のススメ」の出版記念トークイベントがあるとのことで参加。

そのときのゲストが「キングコング西野亮廣」さんでした。

私は西野さんに全く興味がなくアサダさん目当てにいったのですが、イベントが開催された理由を聞いて驚いた。

「西野さんがアサダさんの新刊を読み『この本面白い!』となって、西野さん側からのオファーでこのイベントが開催された」と。

確かにアサダさんはソーシャルビジネス界では有名ですが、失礼ながら一般的な知名度は高くない方だとおもいます。

なんとなく有名人に対するイメージとして「知名度の高くない人とは絡みたがらない。」という印象を持っていました。

でも「あれ。西野さんは有名人なのに、世間の価値基準ではなく、自分の価値基準で仕事を選んでる?自分が興味ある人と仕事をする人なんだな。」という、好印象を持ちました。

そして「『一般人を下に見るタイプ』ではなく『誰しも平等に扱う人』なのでは・・・」と感じ興味を持ったのです。

このとき、わたしは西野さんが世間でいう「炎上芸人」だとか、ビジネス書や絵本を出していることなどは一切知らない状態でした。

それからちょっとずつ、西野さんを追いかけはじめます。

そんななか、こんな情報を目撃。
【私が尊敬する、元リクルート・民間人校長第一号の「藤原和博」さんをおもしろいとおっしゃっている!】
このことで確信しました。

【私が好きなアサダさんと藤原さんをおもしろいという西野さんは、間違いなくおもしろい人である。】

西野さんの投稿を追いかけ、読むごとにテンションが上がっていきました。

「自分と同じ考え方の人を、ついに見つけた!!」

2017年7月、西野さんのオンラインサロンに入り、そこから私の人生が一気に変わり始めるのです。

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